練習、練習、練習

偶然、上原ひろみさんが「情熱大陸」に出演した際のコメントを目にした。彼女の言葉を正確に再現した訳ではないけれど、「例へば3ヶ月上手く弾けなかつたとしても、それは自分の中に原因がある場合、苦労でも挫折でもない。戦場の子供たちは自分に原因がある訳ではない。上手く弾けないから挫折だとかスランプだとか、そんなのは『できるまでやれ』」と言ふコメントがあつたらしい。
流石。私の何十倍も上を行く人は凄いなあと思ひました。
だけれどもし、私が戦場の子供だつたら、耐へるしかないし、慣れるかもしれない。病気の人に比べたら…餓死しさうな人に比べたら…不幸を下に辿つて行くとキリがないし返す言葉もないのだけれど、私にとつては実感する自分の不幸が一番辛い。
ああ、凄い人にとつての挫折やスランプはわからない。ずつと重い試練があるのだらうし。具体的に「この曲が出来ない」とかだつたら練習するしかないのだらうし、やれば出来ることをスランプとは言はないと思ふ。結果的に練習さへやつてゐれば確実に何かは変つて来ると思ふのに、何だかとつても苦しいあの感じは、何だか格好悪い気がするけれど、心の問題だと思ふ。「休憩」とか「練習しない」と言ふ事が怖くて、練習した時間を数えて安心材料にする。
何で今スランプぢやないつて思へるんだらう。下手なのに。
「スランプ 脱出」とかで検索してゐる人がゐるみたいだし、また自分がスランプになつた時の為に書ける事を書いて置かうと思ふのだけれど。スランプぢやないと思へるやうになつてから変つた事は、隣近所に漏れて聴こえてゐる音を気にしなくなつたことだ。もちろん、深夜の練習を控へたり窓を閉めたりと言ふことは気にしてゐるが。以前は、自分の下手な演奏が近所に漏れ聴こえてゐるかと思ふと嫌で嫌で仕方がなかつた。でも今は、この完成に程遠い演奏でも何でも、誰に対してでも、気にならなくなつた。「だつて私は今かうなんですよ。」と言ふ感じ。
と言ふ事から思ふのは、以前は人を気にする余り、自分と向き合つてゐなかつたのかもしれないと言ふ事だ。自分と対話する必要がある。常に次にやるべき事は、その中にあるのだから。だが、取り合へず抜け出す最初には、余り考へない事。兎に角指を動かしてみる。考へなくても出来るやうなハノンでも何でも。そして指を動かし音を出してゐる自分と向き合ふと、やるべき事が見えるだらう。見えなくとも、集中して練習してゐれば、指の感覚や音が変り、次のステップが見えるかもしれない。手が痛くなつたら休めば良い。
何か、良く書けないけれど。
ああでも、凄い人達は、子供の頃からきちんとできたり、既に乗り越えてゐたりするのか。そして私の知る所ではない未知の壁と向き合つてゐるのか。凄いね。
私も頑張る。練習、練習、練習。